るすべを らぬ たち

魔の火種

2.地下書庫の主にお願い(5)

「どういう、意味よ」
 振り返ったマリアは怒りも露に男を見た。
「いい加減にしてくれないかしら。あなたは退屈かもしれないけれど、わたしはそうじゃないの。さっきから一体、なんのつもり?」
「気を悪くしないでくれ。せっかく招待したお客さんなんだ。君にとっても悪い話じゃないはずだ」
「だから、何の話。私が探してるのがこの場所だって、どういうこと」
「そう話を急かすものじゃないよ」
 男がゆったりとした足取りで机まで戻る。猫が音もなく机に飛び乗った。
「さあ、こっちへきて。お茶でも飲みながら話を聞くといい」
 白い茶器が、どこからともなく現れる。そんな説明のつかない現象も、もういちいち驚くには当たらない。
「どうぞ、お嬢さん」
「いいわ、ここの主はあなただもの」
 こちらが折れなければ話がすすまないといい加減理解したマリアは、招かれるままに机に歩み寄った。
 男が差し出す椅子に腰を下ろせば、見えない手に持ち上げられた茶器が間をおかずに飛んでくる。
「冷めないうちにどうぞ」
 文字通り鼻先に、ふわふわと浮き沈みする茶器を、マリアは無言で取り上げた。
 琥珀色の液体は、上物だとわかるほのかに甘い香りを放っている。けれど何を使って淹れたのやら皆目検討もつかない、得体の知れないお茶だ。
 男はと様子を見れば、同じ柄の茶器を手元に置いたまま、座りもせずに少女の動きを見つめている。
 その視線を振り切るように瞼を伏せ口をつければ、香りどおりの甘い味が舌先に広がった。吐き出したい衝動を押し殺して、なんとか飲み込む。
「お味は?」
 間髪入れずに問う声が憎たらしい。
 不味いとはいえないことが苛立ちに拍車をかけ、マリアは音高くカップを置いた。真横で大きな音を出された猫が、背中の毛を逆立てて飛びのく。
「ああ、そう荒れないでくれたまえ。騙して取って食うなんてことはしないから」
 逃げた猫を足元に呼び寄せた男は、楽しげに笑った。
「最初に証拠を見せたほうがよさそうだ」
 言葉と共に男は指を鳴らす。場違いなまでに軽妙に響いた音に呼ばれて、書架の奥から光が一つ飛来した。
 静かに机の上に乗ったのは、くすんだ金具が縁を飾るだけの古びたランタン。風防ガラスも埃にまみれたように濁っている。その中で燃える炎の色は濃い橙で、どこにでもありふれた特徴のない灯火だ。
 ただひとつ他と明らかに異質なのは、丸く揺れる炎が何の支えもなく、灯心すらないままに燃え盛っているということだろう。
「それが――」
 どこか陰気な炎を見つめ、マリアは呟いた。
「魔女の言うランタンだよ。これの持ち主は私だけれどね」
 信じてくれたかな、という声をよそに、彼女の表情はぐっと険しくなった。
「それで、私は何をすればいいの?」
 少女が見上げた視線の中で、男はどういう意味だといわんばかりに首を傾げた。
「私に声をかけて、ここへ連れてきて。ようするに私になにかをさせたいんでしょ。それで、私の探し物をくれるのが見返り。そういうことよね」
 けれどマリアは、そんな仕草に騙されることなく言い切った。黒い人形は、がくりと項垂れる。
「ああお嬢さん、話が早くて助かるのだけれど、もう少し会話を楽しむとか、相手の言葉の裏をさぐるとか、こう――」
 男の声は、尻すぼみに消えた。冷たいマリアの眼差しは、あからさまにその申し出を拒んでいる。
 そもそも表情の変わらぬ仮面人形相手に、なにをどう探れというのか。動きがなければただの置物でしかない存在の言葉の裏をどう読めというのか。
 口に出さないだけで、マリアの表情はそれを如実に語っていた。
「わかった、わかった。気の短いお客様のご要望にお答えしよう」
 男は黒い袖から覗く白いの両手を大げさに開いて見せた。
「ありていにいえば、まあ、私はいい加減今の状態に飽き飽きしているということだ」
 足元の猫を抱き上げた男が、ごほんと咳払いをしてようやく語り始める。
「魔女の地下室で書庫の主として時を過ごすのは、至極簡単に言えばこの上なく退屈でね。だから――」
「私に、魔女を倒せとでも言いたいの」
「まさかまさか」
 男は、喉奥で笑った。話の腰を折られても、怒る様子はない。
「魔女見習い以前でてこずっている君に、そんな大きな仕事を頼めるものか。彼女はね、誰がなんと言おうが優秀だよ」
 倒せと言われたってできないだろう、という言葉を、マリアは否定できない。
「少し、昔話をしようか」
 ぐるり机をまわった人形は、少女の向かい側の椅子に腰を下ろして語り始めた。
「昔、一人の少女がいた。聡明で美しい、という褒め言葉が臆面もなく似合う女性だ。田舎の町で学べるすべてを学びきり、なお知識を欲して遠い異国にまで旅立つほどのひたむきさを持っていた。その異国で、彼女は魔術に出会った」
 いや、目覚めたというのかな、と異形の男は言う。
「彼女には素質と、支えとなる知識があった。先人に教えを乞いはしたけれど、それは僅かの間だけだったようだ。ひとり立ちした頃にはすでには、魔女というにふさわしいだけの存在にはなっていたからね」
 遠い故郷にまで名を知られるようになっていた魔女を、一人の男が訪ねた。
「その頃私は、時間に飽かせて諸国見聞のようなものをしていたんだ。面白そうな噂を聞けば、要らぬ首を突っ込んでみる。気に入れば留まるし、飽きればすぐに次の楽しみを探して旅に出る。そういう暮らしをしていた。そういうときに耳に挟んだ美しい魔女の話だ、乗らない手はないだろう」
 興味だけを理由に訪れた無粋な客を、若い魔女は歓迎した。
「師とする者が居なくなってから、知識欲を満たすのは難しかったようでね。私は話し相手としてこの屋敷に滞在し、彼女は私の頭の中にある古今東西の知識を求めた。さっきも言ったが、私は旅暮らしが長かったものだから、この部屋に収まりきれないくらいの知識は持っているんだ。彼女の知らない魔術の知識をね」
 男の白い指が、同じく白い仮面の端を軽く叩いて見せた。
「頭のいい女性と話すのは、楽しかったよ。そうそう、いつかは肉体を持たない私が不便だろうと、彼女の作った細工人形の一つを器として提供してくれさえもした」
 生身の人間ではないことをあっさりと明かした男は、お仕着せの黒服の袖をくいと引っ張る。
 魔女がいつからこの地に住んでいるか、マリアは知らない。森の魔女、とは子供にとって、御伽噺のなかの登場人物と何ら変わらない、怪しげで不確かなものだった。
 それほど長い年月を、この男は魔女と共に過ごしているという。人形の体を器にしたというのが言葉どおりなら、男の正体は肉体だけがが朽ち果ててしまった哀れな魂の成れの果てか。
 けれど、いぶかるマリアの視線を男は気にした様子もない。
「彼女が作った他のモノと大差ないのが気に食わないが、それを除けばこの器は居心地がいい。魔女の屋敷の客分として時を過ごすのは、退屈していた私にはとても楽しかったのさ」
「でも、そう感じていたのはアナタだけだった?」
 なんとなく話の先が読めた少女は、顔をしかめて口を挟んだ。
「そう、私だけだった。最初からすれ違っていたとは思いたくないが、私の立場が客分でなくなったのは確かだよ」
 表情に変化のない仮面が、悲嘆にくれた声音で相槌を打つ。
「彼女は優秀な魔女だったよ。そして素直だった。知識欲もさることながら、己の欲しいものを手に入れるためには、努力を厭わない人だった。この書庫の本は私が好きで集めた物だけれどね。彼女の屋敷にあるモノは、すべて彼女の所有物に――」
 古今東西の知識を有するという異形の男は、いつしか魔女にとっては地下書庫の本と同程度の価値しか持たないモノと化した、ということだ。
「いいように利用されただけなんじゃない、それ。取り込まれるまで気付かなかった方が馬鹿だと思うわ」
「否定はしないよ。その通りだからね。客分のつもりでいても彼女に造ってもらった器に入りっぱなしでいるおかげで、暇乞いも出来ないのさ」
「それは心情的に? それとも力の加減?」
「心情的な部分が物理的な力の均衡にかなり影響するんだよ、困ったことに」
 魔女の弟子になりたいなら覚えておくといい、と、作り物の体に閉じ込められた賢者が笑う。
「この部屋の中身は私のものだ。この部屋自体もね。ついでに言えば、そこにあるランタンも私が持ち込んだものさ。屋敷の主たる魔女も、私の領分には手が出せない。私には命じることも出来ない」
 細い腕がコウモリの羽根のようにうごめいた。
「が。この部屋はどこにある? 魔女の屋敷の地下室だ。魔女が意のままに出来る世界の中に、組み込まれてしまっているのさ。彼女とのつながりをすべて断ち切るとなれば、ややこしいことになる」
「出来ないの」
「ややこしい、だけだよ。やろうと思えば簡単だ。はっきり言うが私のほうがアレより強い。だから勝負は一瞬でつく」
 けれど言葉とは裏腹にうごめく羽根はあっけなく力尽き、乗り出していた体は椅子に戻った。
「勝負はつくけれど、彼女のとの関係はイロイロ難しくてね。一瞬でカタをつけようとすれば、もろもろの代償を払う必要があるんだよ。つまり、痛いのさ。彼女が痛いぶんにはまあ、我慢してもらえばいいが、私も同じだけ痛いことになる。痛いのは気が滅入る。きっかけを見つけられないまま、ながいこと二の足を踏んでしまうくらいには、ね」
 囚われの賢者は語りを止め、少女を見た。
 マリアは一層顔をしかめて視線を逃した。
 人形の、無機質であるはずの眼差しに感情を見出しているのは、彼女自身だ。けれど、その中に巣くう何かの声を聞き、物語を共有し、あまつさえソレの求めることに思い至ってしまったのだから仕方がない。肚の内を読ませもしない仮面人形のくせに、ひどく饒舌なのだ。
 求められている、と感じてしまった意図を汲んで、マリアはしぶしぶながらに口を開く。
「私がきっかけをつくる、のね?」
「ご名答」
 男が芝居がかかった仕草で手を打ち鳴らした。
「でも、正確に言えば少し違う。わざわざきっかけを作ろうなんて考えなくてもいい。なにか――そうだな、君がこれはと思ったときに、呼んでくれるだけでいいんだ」
「それだけ? 本当にそれだけでいいの?」
 この得体の知れぬ男と手を組んで魔女を追い落とす、そんな結末を考えていたマリアは、毒気を抜かれて瞬いた。何か裏があるのかといぶかる視線を向けても、白い仮面は変わらない。
「それだけだよ。彼女の弟子になるつもりの君が、最初から裏切りに加担しろといわれても困るだろう。もし何も起こらず私を呼ぶ機会がなくても、それはそれでかまわない。君自身が魔女と決別するような事態を望んでもいない。君と彼女の関係と、私と彼女の関係は、全く別のものだからね」
 期待していないのね、と言いかけて、マリアは言葉の裏に気付いた。
「あなた、今までにも何回も?」
「本当に察しが良くて助かるよ、お嬢さん」
 男は今までにも何回も、訪れた誰かに同じような依頼をしてきたのだろう。森で迷ったマリアに声をかけ導いたように、これと思う人物を己の居室に招き入れ、望みを託したのだろう。
 けれどいまだ男はこの地下室に囚われている。
「付け加えておけば、私がこの暮らしに嫌気がさしていることを、魔女はとうに承知しているはずさ。彼女には、私の意図など関係ないらしいよ」
 言い切られてしまえば、それはもう男の弱みではない。
「ところで、他に質問は?」
 貴方は誰、そう問いかけそうになるのを、マリアは辛うじて押し殺した。聞けば男は答えるだろう。はぐらかされることはあっても、嘘は言わない。
 それが分かってしまうからこそ、問いかけられない。聞いてしまえば、二度と戻れない何かの深みに、嵌まり込んでしまう。
「――いいわ、あなたの条件、飲むわ。あなたが悪魔の手先だって関係ない。私は、やらなきゃならないことがあってここに来たの。こんなところで落第してなんかいられないわ」
 悪魔の手先ねぇ。喉を鳴らした男が、マリアに右手を差し出した。
「さあ、契約成立の証に、私の名前を教えよう。君が呼べば、私は駆けつける。私の名前は――ウィル、だ」
 差し出された手に指先を重ね、マリアはウィル、と呟いた。
 とたんに声を発した喉奥が、かっと熱くなる。足元が抜け落ちたような浮遊感が襲ってくる。耳元で、風が唸りをあげる。
「あ、な、た」
 喉に絡んだ息を無理やりに吐き出せば、その声はひどく掠れたものになる。
 前にのめった少女の肩を、冷たい手がが押しとどめた。そのまま緩い力で胸元に抱きとめられる。
「大丈夫だ、落ち着きなさい。私の名前は、君には害をなさないよ」
 視界を奪われ、耳元にささやかれる声だけが鮮明に響く。
「大丈夫だ」
 重なる声に、痛みは訪れたのと同じように唐突に去っていった。
 無理やり男との体の間に腕をねじ込んで、マリアは身体を起こす。胸元に手を置き、肩で息をする。
「そこまで過剰に反応されるとは思わなかったがね、まあ、相性がいいんだろうさ」
 何事もないと嘯くウィルという名の男は、あくまで丁寧な手付きでマリアの身体を支えている。
「さてお嬢さん、貴女の名前を教えていただけるかな?」
「私は――」
 得体の知れないモノに名を知られてはいけない。名を呼ばれれてしまえば、取り込まれる、だから、どう訊かれても教えてはいけない。そう言ったのはまだ生きていた頃の祖母だっただろうか。
 寝物語の御伽噺にしては、ひどく真剣だった誰かの声を彼女は覚えている。
 けれど、もう遅い。
 己の名前を告げないまま、彼女は囚われてしまった。魔物の名前を知り、それを呼んだ。
 ウィル、というたったそれだけの音が、彼女のなにかを、決定的に変えてしまった。
 変えられてしまった。だからもう、逃げ出すには手遅れだ。
「私は、マリア」
 背筋を這い登る恐怖心を押し殺して、マリアは名乗った。

 
 

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