るすべを らぬ たち

魔の火種

2.地下書庫の主にお願い(4)

ずらりと灯る蝋燭。
 照らし出された室内を見回して、マリアは思わずため息をついた。
 あたり一面が、本で埋め尽くされている。そびえ立つ本棚の森。
 一抱えもある立派な装丁の本。羊皮紙だろうか、茶色く変色したボロボロの紙束ものぞく。すこし余裕のあるらしい上部には、黄味がかった細長い筒が無造作に押しこまれている。
 そしてどういった細工か、高い天井ぎりぎりまで溢れたそれらは、他の影に沈んでしまうこともなくそれぞれに己の存在を主張しているのだ。
「そんなところで座り込むのが趣味でなければ、こちらへどうぞ。お嬢さん」
 ぽかんとその光景を見上げる少女の注意を引き寄せるように、声がかけられた。先ほどとは違う、はっきりとした生身の声だ。
 マリアは、慌てて部屋の奥に視線を向けた。
 高い棚に挟まれた細い通路の向こう、一つだけおかれた古い書き取り机の横に、椅子に腰掛ける人影があった。
 痩身を包む裾の長い黒服。顎の辺りまで伸びた髪も黒。膝の上に乗せた猫までが黒い。
 唯一異なる色彩を放つのは、マリアに向かって差し出された真白い手袋だけだ。
 男の姿を視界に入れたマリアは、ほとんど無意識に呟いた。
「あなた……、人形?」
 髪に隠れた男の、口元が歪んでいる。おそらくは、笑みの形に。
「おや、そうみえるかい?」
 低くなく高くなく、どちらかといえば心地のよい柔らかな声音が、その唇から吐き出される。けれど、小首さえ傾げてみせたその言葉には驚くほどの冷たさがあった。
 椅子から男が立ち上がる。長身から伸びた影が二つ三つと壁に躍る。
 光の当たる角度が変わり、男の顔が露になった。
 横倒しにした三日月のような両眼。その逆に吊り上がった細い口。それは数刻前マリアを案内した不思議な人形と、細部こそ違えど同じ仮面だった。
「まあ、器を借りているのだから外見は人形と思われても仕方がないだろうね。けれどアレと私と同じだと思われるのは不愉快だね。あの愚かで愛しい操り人形たちとこの私とが、本当に同じに見えるかい?」
 喉奥で低く笑いながら近づいてきた男は、滑らかな仕草で片膝を折った。視線の高さが揃ったことに少女が身構える間もなく左手をすくい上げ、そのまま動くことのない借り物の唇を落とす。
「――っ!!」
 氷が触れたような、痛みさえ感じるほどの冷たさに、マリアの肌がぞわりと総毛立つ。とっさに左手を引き抜き立ち上がった。
「おっと、失礼。それにしても、思った以上に素質はあるらしい」
 振り払われた手を握りながら、男はマリアを見上げた。細い双眸は動くわけもないが、切れ込みの奥に僅かに光る輝きが、機嫌のよい感情を伝えてくる。
 きびすを返して逃げ出してしまわないのが、いまだ恐怖に足がすくんでいるせいだと悟られないよう、マリアは眉根を寄せて男の視線を受けた。
「なによ、素質がどうとか――」
 そこで、思い出す。耳に残る声は、今初めて聞いたものではない。
「あなた、森の中でも同じこと言ってたわよね?」
「よくご記憶だ。もしかしたら、私は君に礼を言われる立場なのかな?」
 肯定の言葉と共に、双眸の光が揺らいだ。笑ったらしい。背筋が粟立つような寒気を無理やり押さえ込んで、少女は顎を上げて答えた。息を吸い込んで、吐く。それすら意識しなければ、知らず恐怖に足が震えることを分かっていた。
 ゆっくりと後退りながら、問う。背を向けて逃げ出すのと留まるのと、どちらのほうがより危険が大きいのか判断がつかず、逃げ出す間合いはまだ見つからない。
「答えるつもりがないなら、帰らせてもらうわ。遊んでる暇はないのよ」
「魔女の試験に、落ちるつもりかい?」
 即座に投げ返される言葉にマリアは眉根を寄せ、表情のない男を睨みつける。
「どういう意味?」
「そのランタン」
 白い指が、二人の間に残された四角い容器を指した。
「見覚えがあるのでね。内容は、地下室から魔法の灯を取ってこい、というところだろう」
 返事がないことを肯定ととったのか、男が言葉を継ぐ。
「君が独りで、この迷路の中から目的の部屋を見つけ出せる自信があるなら、止めはしないがね。どの扉が安全でどれが危ないかすら、君にはわからないだろう? 何しろ、この猫に案内されなければ、君は今頃業火に焼かれるか化け物に喰われるかして跡形も残っていなかったはずだからね」
男の身体が生身であったならば、きっとその顔には人の悪い笑みが浮かんでいることだろう。
「魔法に縁もゆかりも、それどころか興味すら持っていなかった君がどうしてわざわざこんな化け物屋敷に出向いてきたのかはあえて聞かないけれど。でも、私の言葉が耳を傾ける価値があるかどうかくらいは、判断がつくと思うのだけどね」
 少女の表情が一層険しさを増す。それを仮面の下から見つめつつ、男は指を一つ鳴らした。どこからともなく椅子が一脚現れる。
「仲良くしようじゃないか」
「どうして私が魔法に興味がないなんて思うのよ」
 勧められる仕草を無視して、少女は男を見据える。黒ずくめの人形は困ったように肩をすくめた。
「この部屋は古い本だらけ、それも、古今東西の魔術書ばかりだ。そこも、向こうの棚も、どれもこれも稀少で貴重なものばかり」
 白い手袋に包まれた指が、遠くの書棚を指した。少女はつられて振り返りそうになるのをぐっとこらえ、男を睨み続けた。
「だから、何」
「君は、一度は本を目にしたにも関わらず、全く興味を示さなかったろう。どれも稀少だけれど有名な本がほとんどだ。それに反応しないとすれば、考えられる理由は二つ。もう読んだか、もしくは知らないか、だ」
 男の指が、2本立つ。
 聞けば聞くだけ取り込まれる。そう思っても、蝋燭の灯に揺らめく薄ぼんやりとした世界の中、はっきりと浮かび上がる白から目が離せない。
「が、前者はありえない。誰かに師事でもしない限り、君のような若い子がこの手の書籍を手に取る機会などない。ついでにいえば、そんな機会に恵まれていたら、今こんなところにいる理由もない」
 どうだろう、というように僅かの間を置いて、男は指を一本折った。
「もう一方はどうかな。君のすぐ後ろにある全集、魔術を志すなら一度は手に取りたいと思うだけの逸材なんだがね?」
「今はそんなコトに気を回している場合じゃないもの。試験に合格できたら読める機会はいくらでもあるわ。それじゃいけないの?」
「いけなくはないさ、もちろん。本当に君がこの部屋の価値を分かっているなら、ね」
 噛み付くように答えた少女をなだめるように男は低く笑う。そしてその口調のまま次の攻撃を繰り出す。
「だって君は、この真っ暗な部屋に入っても何もしなかっただろう? いくら魔術書が手に入りにくいとはいっても、火を呼ぶ呪文くらいは一番最初に覚えるものじゃないのかな。まさか、それも後回しかい?」
 少女の表情に険しさと苛立ちが増した。けれど、きつく結ばれた唇は動かない。いや、動かせない。これ以上なにを口にしても、彼女が魔術について本当に初心者なのだとはっきりと露見させてしまうからだ。
 それが分かっていてなお、マリアは、詰めた息を吐き出す声音で低く応じた。
「だったら――。そうだったら、どうだっていうの」
 それは、肯定であり、この場の敗北の証。
「私が魔術の基本も知らないからって、あなたに馬鹿にされるいわれはないわ。あなたがもし試験管だったとしても、さっさと不合格だと言えばいいだけのことでしょう」
 ほとんど投げやりな気分で言い募る。取り繕わなければと頭の隅では分かっているが、言葉はとまらない。操り人形なのは彼女のほうだ。
 殺意すらこもる少女の視線を男は無言で受け止めた。その足元に擦り寄った黒猫がかん高く啼く。
「――いや、失礼した。君を困らせるつもりはないんだ」
 僅かの間を置いて発せられた男の声に、笑いは含まれていない。硬質な面の表情にこそ変化はないが、身にまとう雰囲気がからりと変わった。マリアを圧する気配が霧散する。悪寒は去り、呼吸さえ楽になる。
「むしろ、歓迎しているんだ。なにしろ、この部屋にお客さんが来たのは本当に久しぶりのことでね。この猫に案内を頼んだのだよ」
「それを、信じられると思うの」
「からかったのは事実だ、本当にすまない。誰かと話すのすら久しぶりすぎて、調子にのってしまったんだ。何しろ、君はとても面白い」
 わかってくれるだろう、と男が首を傾げてみせる。
「悪いけど、だったらなおさら私に構わないで。さっきも言ったけど、私は試験中なの。あなたの相手をしてる暇はないのよ」
マリアは、今までの苛立ちをすべてぶつける激しさで吐き捨てる。
 男は猫のように喉を鳴らした後、次の切り札を取り出して見せた。
「それは残念だ――。ここが君の探す場所だというのに」