2.地下書庫の主にお願い(7)
まず予兆に気づいたのは、黒猫だった。目を覚ますと、伸びやかな動きで机に飛び乗り、一声鳴く。
その間に、男も身を起こしている。
細く長い呼吸を繰り返す少女の肩が緩やかに上下する。
その動きがちょうど20を数えた時、初めての変化が訪れた。
ランタンが、わずかに動いた。机との間に、薄紙が一枚ようやく挟めるだけの隙間が生まれた。
一拍おいて、その変化が一層顕著になる。一つの角が、指を一本差し込めるだけの高さまで持ち上がった。
「あ」
マリアの唇から、落ちるように声が漏れた。
危うい均衡が崩れ、浮き上がっていた角はあっけなく机に落ちる。
「ねぇ、なにか、した?」
「まさか、そんな無粋をするわけがない。君が一番よくわかっているだろう」
長い緊張のせいか掠れた声の問いを、ウィルは即座に一蹴した。
「疑うなら、もう一度ためしてみればいい。邪魔はしないよ」
促されるまま、マリアはランタンに視線を戻す。くい、と眉根に力が篭もると、四角い箱は再びぐらぐらと揺れ始めた。
「ほら。君はもう好きに力をつかえるのさ。まっすぐ上に引っ張りあげる。そう、今!」
ランタンは一瞬静止したあと、すっぽ抜けるように天井にむけて飛び上がった。
呆けて行方を追っていたマリアが我に返り、両手を差し出す。ランタンは危うく手のひらに収まった。
ほっと息をついた少女の耳に、拍手の音が届く。
「素晴らしい、上出来だ。手を使わずに受け止めるところまでいけばそれこそ完璧だったんだが、まあそれは仕方ない。もう感覚はつかんだね?」
ランタンが再び浮かび上がる。顔の高さで二度三度ふるえたあとは、すぐに落下の勢いで机に降りた。
「だめ、まだ支えられない。力加減がわからないし、ちょっと息をしただけで途切れちゃう」
「それはもう、慣れていくしかないものさ。今の君は赤子が一人歩きしはじめたのと同じくらいだよ。いきなり走ったり飛んだりなんて求めはしない」
大きく息をついたマリアの頬を、にじんだ汗が玉となって伝い落ちていった。
「もっとも、その一歩を踏み出せる人間はごく限られているがね。そして君は、私の予想以上に上達が早かったよ、マリア」
「私の名前、呼ばないでって言ってるでしょう」
「おや、嫌われたな」
「あなたの声は、頭に響くのよ……」
睨む視線に力はない。それでも少女はぐいと顎をあげた。
「でも、いいわ。これで最初が合格なら、次に進む」
「そう急くものじゃない。君に力があるといってもね、半分は無理に目覚めさせたものだ。身体への負担が大きすぎる」
「だめよ、時間がないもの」
うわずった声で言い募るのを制して、ウィルは右手をあげた。
「駄目だ。無理を押したところで、いい結果は出ない。せっかくの足がかりを無くして脱落者の仲間入りがしたいなら、止めはしないけれどね。この先も賢く生きたいなら、私の言うことを聞きなさい」
白い指先が、机を一つ叩く。
「そうでなくても次の段階は難しいんだ。今の君では失敗する、断言してもいい。まずは焦らず休むことだ」
ウィルの白い指先が、机をひとつ叩く。
「君は休むことも覚えなければならないようだね。息をついただけで結果がよりよくなるならば、立ち止まることを恐れてはいけない」
どこからともなく茶器が飛んできた。
前のものとは違う、淡くくすんだ青色が目を引く。どうやら、飲食を必要とするとは思えない仮宿の人形には不似合いな、喫茶が彼の趣味の一つであるらしい。
男は、続いて手元に呼び寄せた水差しをとりあげると、冥く燃え盛る炎の上を緩やかに一往復させた。
それだけで、水差しの中身は音を立て、細い注ぎ口からは湯気が立ち昇る。
沸き立つ湯が茶器にそそがれ、爽やかな香が薄暗い室内に漂った。
「私が配合した茶葉だ。君のための特性だよ」
マリアの前に、カップが滑ってくる。
少女は、仮面を一度ずつ見やった後あと、黙ってカップを取り上げた。
香りどおりの鼻に抜ける刺激をこらえて飲み下せば、喉を滑るにつれて清涼感が増していく。一瞬の冷たさのあとにやってくるのは、不快感一歩手前の熱さだった。
ぐっと喉をならして、彼女は差し出された一杯を飲みきった。少しでもためらえば余計な一言を聞かなければならないと分かっていたからこその意地でもあった。
喉をすぎる熱は、やがて腹に落ち、全身に広がっていく。
どっと吹き出した汗を拭ったところで、男が笑った。
「気分がすっきりするだろう?」
「刺激が強すぎるわ。胸焼けしそう」
「おや? それは失礼。久しぶりすぎて加減を間違えたかな?」
ウィルは笑い声のまま、恐ろしいことを言ってのける。
それでもマリアは気づいていた。身体に溜まっていた疲労感がない。一瞬噴き出した汗とともに、身体から排出されてしまったように。
そして、それ以上に彼女の感覚に変化があった。
それまで見えなかったものが見える。聞こえなかったものが聞こえる。
常人には分からない、否、必要とされない力を封じていた“何か”が、跡形もなく消えているのだ。
「もう、目が覚めたろう」
「ええ、覚めたわ」
手元のランタンを見れば、風防の一角に、先ほどまではなかった小さな錠前がぶら下がっている。
いや、違う。錠前はたぶん、最初からあった。風防が開かなかったのは、あたりまえのように鍵がかかっていたからだ。
ただ普通の錠前と違うのは、それをあけるべき鍵を普通の人間は持たないことだ。持っていたとしても気づかず、そして開け方を知らないだけなのだ。
人が魔法と呼び、恐れ忌み嫌う力は、元来誰の中にも備わっていると、今の彼女なら「知って」いる。長い年月の間に、人が不必要として忘れ去ってしまっただけのことだと。
「もっと時間があれば、一つ一つゆっくり思い出させてあげられたのだがね。かといって最初から無理に起こすのは荒療治にすぎる。寝ぼけ眼ぐらいがちょうど起こし土器なんだ」
効果があったろう、とウィルは茶器を持ち上げた。
「うまく行ってよかった。何しろ前に試したのはもうずっと昔のことだからね」
「お礼は、言わないわよ」
「結構。では、それをあけてごらん」
マリアは呼吸を整え、ランタンを見つめる。空のランタンはぐらっと傾いでから、あっさりと宙に浮いた。小刻みに震える危なっかしさはあったが、まっすぐ手の中へ飛び込んでくる。
それを、マリアは両手で包み込み、錠がかかる場所の気配を丁寧に探った。鍵の開く感覚を脳裏に描く。
手の中に、軽い、けれど確かな振動が伝わった。
両手を引き上げれば、風防ガラスが一枚するすると持ち上がる。
「お見事。優秀な生徒を教えるのは楽しいね」
軽い拍手の音で賛辞を伝えたウィルは、己のランタンを引き寄せた。
「さて、次で最後。私の炎を分けてあげよう。使いこなせるかどうかは、君次第だけれどね」
炎に向かって一つ、短く鋭い吐息が吹きかけられる。オレンジ色の炎が、大きく揺らめいた。
次は、細く長く、なだめるように。
力に屈するように、右に左に暴れていた炎の向かう先が定まった。マリアの前にある空のランタンに向かって、細く細く伸びていく。
それは限界まで達し、そこで先端がちぎれて小さな破片へと変わった
直後、空のはずのランタンが激しく揺れた。
「さあ、逃がさないように捕まえなさい」
何もないランタンの中で、小指の先ほどの炎が揺らめいている。
風防が滑り落ちた。意図した訳ではなく驚いた拍子に手を離してしまっただけだったが、その行動は正しかった。
炎のある空間が閉ざされる。
けれど。
「そのままじゃ、駄目だ」
ウィルの言葉を証明するように、手のひらに衝撃が伝わった。
切り取られた空間のなかを、橙色の炎が飛び回っている。右に左に上に下になりふり構わずぶつかっていく様は、まるで手負いの獣のようだ。
もしも風防が壊されたら、とマリアは背筋を凍らせた。指先を喰いちぎられる光景が目に浮かぶ。
けれど、抵抗は長くは続かなかった。ぶつかる勢いはだんだんと弱くなっていく。
「はやく拾ってやらないと、死んでしまうよ」
男が困ったようにつぶやいた。
炎の欠片は、見るも無惨な様相へと変わり果てていた。橙だった色合いは、茶に近い褐色に明度を落としてる。それでもなお暴れるごとに、どす黒く変色を続けていく。
「拾うって、どうしたら――」
「そいつは、こことは別の空間に棲む炎なんだ。ランタンを閉じて、空間を切り離してやらないと」
「早く言ってよ!」
マリアはあわててランタンの上部に両手をかざし、息を整えた。先ほど鍵をあけた、その感覚を逆にたどっていく。念には念を入れ、継ぎ目を片っ端からつぶすように意識を集中した。
最後に、すべてを一くくりにして鍵をかける姿を思い描く。指先に微かな振動が伝わった後、鈴音のような甲高い錠の落ちる音が響いた。
見る者が見ればはっきり分かる。マリアにしか開けることのできない鍵がかけられたのだ。
「お見事」
前と同じ言葉で、ウィルは少女へ賞賛を送った。
切り離された空間の中で、橙よりも朱色に近い炎がおとなしく揺れている。
「もうそれは、君のものだよ。名前でも付ければ、喜ぶかもしれないな」
マリアが正直に鼻白んだ、その時。
ポォン、と見えない時計が一つ、鳴った。
「時間のようだね」
残念だけれど、とウィルが立ち上がる。
「もうすぐ夜が明ける。魔女の元へ戻らなくてはね」
マリアもつられて立ち上がった。黒猫が音もなく床に降り立つ。
「課題はこなした、あとは戻るだけだ。さあ、行きなさい?」
白い指先が指し示す先に、扉がぼんやりと浮かび上がる。
「ねぇ――」
「寂しがってくれるのはありがたいけれど」
「違うわよ、ふざけないで! 誰が寂しがってなんか」
頬を朱に染めた少女へ、男は驚くほどに真面目な声を返した。
「君は、大丈夫だ。それに私は君の名前を知っている。そして君は、私の名を知っている。呼べば、いつだって力を貸そう」
「――あなたなんか、頼るものですか」
強がる言葉に、ウィルは声なく笑ったようだった。
マリアはこみ上げた悪態を飲み込んで、扉へと向かった。