るすべを らぬ たち

魔の火種

2.地下書庫の主にお願い(6)

「マリア、マリアね。いい名だ」
 歌うように囁かれて、マリアは露骨に眉根を寄せた。名を呼ばれたことで先ほどのように異変が起こることはなかったが、それでも背筋を走る嫌悪感は本物だ。
「私の名前、呼ばないで」
「そう嫌われると悲しいな。仮にも協力者という立場なんだがね」
「私、あなたを信用したつもりはこれっぽっちもないもの。あなたが私のほしい情報を知ってるんじゃなかったら、名前だって教えなかったわ」
「まあ、全面的に仲良くしようとは言わないが」
 男は静かに燃えるランタンの火を指した。
「君がこれをもって帰らないと、私が君を招いた意味もなくなるからね」
 ところで、と男は白い手指を組んだ。三日月型の黒い眼堝が少女を正面から見据える。
「今更が確認させてほしい。君は、本当に魔女になる気だね? 魔女になるということは、人でなくなるということと同義だよ。平凡で平和な人生という、希少で貴重な財産を、自らの手で永遠に葬り去ることだ。困ったことに、後で悔やんでも後戻りはきかない」
「私には、やらなきゃいけないことがあるの。そのために魔女になるのが一番なら、私は後悔しないわ。必要なら、悪魔に魂だって売ってやる」
 少女の言葉に、ウィルは猫のように喉を鳴らして笑った。
「それはいい。それだけの決心があるなら、何の問題もないな。何しろ君は、稀にみる逸材なのだよ。私の声が聞こえ、私の姿を見、あまつさえ私の名を畏れることもなく呼ぶ。それがどれだけ素晴らしいコトか、君は知らないだろうがね。そんな希有な力を持った存在が、つまらない人生を送るなど、罪づくりもいいところだ。心配しなくていい。マリア、君は実に優秀な魔女になるだろう」
 笑う男を前に、マリアは喉元までこみ上げた言葉をかろうじて呑み下す。
『あなたは、誰』
 それを聞いてしまえばすべてが崩れ去る気がした。
 男は、発せられなかった言葉を聞いたかのように笑みを深くした。三日月型に穿たれた口元が、揺れる炎を受けて歪む。
 マリアは、逃げるように視線を逸らした。
「さて、経験不足の君に特別講義を始めよう。私の火を預けるからには、使えないなんて醜態をさらしてほしくはないからね。なにしろ今の君は、この容れ物から火を取り出すことすらできないレベルだ」
 要らない、の声を封じるように男が言う。
 マリアは無言で相手を睨みつけた。言うことなすことすべてが気に障る。
「――どうすれば、いいの」
 けれど不満を飲み込んで、マリアは教えを乞うた。
 魔女になるには、人であることを棄てる必要があるらしい。ならば、目の前の人形がこの世ならざる異形ならば、彼に尋ねてなんの不都合があるだろう。
 それに、彼女は名を渡してしまった。白い手袋の上で踊る覚悟はできている。
「素直でよろしい。さあ、特別授業の開始といこうか」
 少女の内心など知らぬ風に、楽しそうに笑う悪魔の講義が始まった。

「さて、散々脅してはみたけれどね。大丈夫、実に簡単なことさ」
 机の上の二つのランタンが、音もなく浮き上がる。
「身体で覚えるのが一番だ。それを持って」
 空の方の一つが、マリアの鼻先で止まった。男の白い指がつまみ上げる仕草をする。
 言われるとおりに取っ手を掴めば、一拍の間をおいて指先に重みが加わった。
「重さがわかるかい? ゆっくり上げ下げしてみるといい」
 少女が躊躇いがちに右手を動かすのをしばらく眺めてから、ウィルは口を開いた。
「では、マリア。今君は、自分の右手がどれくらいの力を込めていたか、意識していたかい?」
「……いいえ」
 顔の高さで止まった右手に、自然と視線が向く。
「それを支えるのに、まさか全力は要らない。けれど、力がわずかでも不足していれば、あっけなく落下する。過不足のない力の配分、人間は器用にも無意識でやっているんだよ」
 マリアはゆっくりと右手を上下させた。机につくすれすれまで降ろす力加減。指先から離れて落ちないように支える最低限の力。
 勢いよく引っ張りあげる。落とすつもりで力を抜く。受け止め、支える力。
 確かに、指先に込める力は用途によって変化している。それを彼女は、滑らかに、躊躇いなく行えていた。
「わかったかい、それ一つを動かすのにどれだけの力が必要か」
「ええ、何となくだけど。今まで考えたこともなかったわ」
「それはいい。今度は、机の上から持ち上げてごらん」
 マリアは従順に従った。潜めた息づかいだけが部屋に響く。
 退屈に飽きてあくびをした猫が、男の膝から逃げ出した。
「――そろそろ、本番といこうか」
 ウィルが、指を鳴らす。マリアの手からランタンが逃げ、音も立てずに机の上に鎮座した。
「手を使わず、同じことをやってごらん。さっき覚えた力加減どおりに、頭の中で動かすんだ」
 マリアは、四角い器を睨んだ。右手の指先が無意識に、取っ手をつかんで持ち上げる仕草を繰り返す。
「最初は鉄の塊を持ち上げるつもりでやるといい。すっぽ抜けて天井まで飛んだってかまわない。まずは、動かすことに専念しなさい」
 何をバカなことをやっているのだと、頭の片隅で冷めた自分があきれているのがわかる。こんなことをして何になる、怪しい相手の言葉にすがるのかと、叱責する声は消えない。
 それに耳をふさぐようにして、少女は、小さなランタンをいっそう睨みつけた。

 どこか遠くで、柱時計が鳴っている。
 地の底を這うような音が、わずかな振動となって地下書庫にたどりついたらしい。
 机の下で丸まり、規則的な寝息をたてていた黒猫が、耳を動かした。
 足を組み、椅子に背を預けたまま動かなかった男の仮面が、ゆるりと仰のく。
「悪いが、邪魔をしないでくれ。今とても楽しいところなんだ」
 紛れ込んできた雑音は、突然幕を張ったように鈍く遠のいた。
「邪魔者は去ったけれどね。そちらはどうだい、マリア?
時間に間に合うかどうかは君次だよ」
 男の視線が少女に向かう。それに気づく様子もなくマリアはランタンを見つめ続けているが、目の前の器はわずかばかりも動いた様子はない。
「まあ、私にとっては時間など無意味に等しいからね。頑張りたまえ」
 男は再び椅子に身体をあずけ、猫は寝返りを打つように前足をくみかえた。
 部屋の中は、静かな息づかいだけに戻っていった。
 そして――。