るすべを らぬ たち

聖節の幻

3.ハシバミとヒイラギの魔除け(前)

 祭りの夜の夜半すぎ。お菓子をもらった子供たちはすでに夢の世界へと旅立ち、夜通し起きている大人たちは広場や各々の家での騒ぎに余念がない。新年を迎える炎は途切れることなく燃えているが、それでも仮装行列の消えた通りは人通りも途絶え静かだ。
 路地裏の影を渡るようにして、一人の男が歩いている。黒いタキシードにカボチャ頭という姿は笑いを誘うに十分な滑稽さだが、その歩みには少しの隙もない。笑顔の形に彫られた動かない仮面の眼窩の奥に宿る不思議な炎には、みる者の背筋をぞっと凍らせるだけの凄みさえあった。右手に蕪のランタン左腕に飴の入った籠という、数時間前と全く変わらないいでたちであるのに、彼の纏う雰囲気はまるで違っている。
 路地裏の隅で丸くなっていた野良犬が一匹、目の前を通り過ぎる影に頭を上げた。不躾な縄張りへの侵入者を脅かしてやろうと思ったのか、低く唸り声を立てる。けれど男のほうは聞こえたそぶりも見せず淡々と歩を進めていく。
 それが気に障ったのか、野良犬は立ち上がって男の背を追った。弾けるような吠え声が夜の空気を震わせた。敵を威嚇するその声は存外遠くまで響いたらしく、町のあちらこちらからつられたように吠え声があがる。
 けれど、侵入者は歩調一つ乱すことなく歩いていく。存在を無視された野良犬は、苛立ちも露に目の前に翻るマントの裾めがけて飛び掛った。無礼な相手を足止めするには、すぐ先を横切るそれを捕まえるのが一番早いと思ったからだ。
 けれど簡単に捕まえられると思ったその端は野良犬の目前で向きをかえ、意思があるかのように正確に彼の鼻先を打った。痛みと驚きで顔を上げた野良犬が、次の瞬間、射すくめられたかのように足を止めた。
 カボチャの、道化じみた仮面がじっとこちらを見下ろしている。形の変わらないはずの眼窩にちらちらと瞬く炎と、ぼう、と光るランタンの作る陰影とが、なんともいえない圧迫感となって無礼な野良犬を睨みつけていた。
 虚勢を張ろうとした野良犬の声は、絞り出すような哀れな悲鳴にすりかわる。動かない仮面の中に恐怖の対象を見つけてしまった時点で、街に馴れた獣に勝ち目はなかった。男がこちらにむけて動くそぶりを見せただけで、犬の耳が倒れる。見下ろし睨みつけたままの一歩目で腰が引けた。威嚇にもならない甲高い声でわめきながら、それでも二歩目まで踏み堪えただけ立派というべきだろうか。それでも三歩目までは耐え切れずじりじりと後退を始めたかと思うと、後はもう一目散に駆け出すだけだった。
 文字通り尻尾を巻いて逃げ出した野良犬の姿が完全に消えるのを待って、男は再び歩き出した。
 まばらにあがっていた周囲の吠え声も次第に落ち着いて、彼のまわりは再び沈黙に満たされる。
 悪魔のような男は、足音一つ立てず滑るように通りの角へ向かった。両側にランタンの燈された家々が並ぶ大通りへと出る場所だ。
 男はそこで、裏路地の闇に溶け込むかのように足を止めた。
 彼の視線の先、大通りの中ほどにある一軒の家の前で何人かが争っている。
 もみ合う集団のうち身奇麗な二人の老人はその家の夫婦なのだろうか、時折後ろを気にしつつも必死な様子でこぶしを振り上げる悪漢たちをせき止めている。その非力な老夫婦に絡んでいるのは、ぼろぼろの服を形ばかりまとっただけの見るからに風体の悪い連中だった。祭りの酒にかこつけて因縁をふっかけて歩く輩がいないわけではない。。
 けれど、風に乗ってカボチャ頭の所まで届く罵声や怒声に、周囲の家の人間が気付いた様子がない。関わりあいを嫌がって居留守を決め込んでいるというには、それはひどく不自然な状況だった。何より老夫婦が必死で守っている家では、先ほどから家族の影がカーテンに映っている。それなのに誰一人、老夫婦を心配して様子を窺いに顔を出すことすらしないのだ。
 カボチャ頭の動かない双眸の奥で、光がゆらめいた。彼の目に映るその一塊の集団は陽炎のようにぼんやりと霞み、二人が重なっていてさえその向こうの通りの様子が透けて見えている。四方から投げられるランタンの光を浴びても、その足元に影はない。
 万聖節の夜には、ランタンの灯に導かれた先祖の魂が帰ってくるといわれている。おそらく、老夫婦はその家の祖先の霊なのだろう。
 ただ、この世とあの世との扉らが開けられて現世に足を踏み入れるのは、聖なる死者たちだけとは限らない。行き場をなくして彷徨う魂や、悪霊、果ては地獄に籍を置く悪魔たちまでもが祭りの音に誘われて姿を見せる。人の目に見えない彼らは、けれど確実にそこに存在し、関わった者たちに不幸を振りまきながら行進する。子供の仮装のような可愛らしさはかけらもない、文字通りの死霊の行軍だ。
 この家も、地獄の釜からあふれ出したそんな悪霊たちに目をつけられたのだろう。時折カーテンに影の映る小さな子供が目当てなのかもしれない。
 そんな暴力を厭うはずもない人の形をしただけの悪霊たちが、それでも勢いに任せて乗り込めないでいるのは、家の軒先に飾られたハシバミの枝の魔除け飾りのおかげだろう。家に害をなす魔物を避け家族の平和と繁栄を願うその護符は、きちんと役目を果たしているようだ。
 その証拠に、無理やりに押し入ろうとした悪霊が敷地との境界線を踏み越えた瞬間、白く火花が走り、不可視の壁にぶちあたったかのように体が跳ね返されている。
 逆に彼らに押しやられてよろけた老夫婦が庭に入り込んでも、なんの反応も起きない。非力な老夫婦がなんとか彼らと張り合えているのは、その魔除け飾りの力が祖先の霊である彼らをも守護しているからだ。結界の内側にいれば安全だというのに、尚も悪鬼たちに立ち向かおうとするのは、子孫に対する情愛ゆえだろう。
 力ずくでも破れない結界に腹を立てたのか、悪霊たちはだんだんと本性を表し始めている。死人の青白い肌が赤紫色に変わり、大きく開いた口から覗く歯は、遠目にみてもやけに鋭くとがっていた。
 通りの影からしばらくその様子を眺めていたカボチャ頭が、そちらに向けて静かに歩き始めた。