3.ハシバミとヒイラギの魔除け(後)
「皆様、ご機嫌よう」
かかとを鳴らし赤いマントを翻して、彼がおどけた口調で一礼して見せたのは、言い争う集団からほんの数歩離れた場所についてからだった。
周囲に目を向ける余裕がなかったせいか、それとも男の気配がなかったせいか、足音一つ立てずに突然現れた異形の主に、それぞれがぎょっとした表情を浮かべた。
「今日はめでたい祭りの夜。それなのに野暮なことはおよしなさい。祭りに浮かれるのも結構だが、お年寄りを困らせるのはよろしくない」
いいながら男は軽い足取りで踊るように進み、赤い髪を逆立てた幽鬼の前に立つ。それがちょうど老夫婦との間に割り込む形になったのは偶然ではあるまい。
『何だお前は!』
邪魔をされた悪鬼たちが怒りの矛先を変える。それでも問答無用に飛びかかることなく誰何の声を上げたのは、この乱入者の扱いを決めかねているせいだろう。男の視線は明らかに死者を捕らえているものの、その足元には 四方の光を浴びてうっすらと伸びる影がある。生者か否か、正体不明の男は悪霊たちにとっても不気味な存在であるらしい。
「誰と言われましてもこの道化、名乗るほどの名前は持ち合わせておりません。賑やかな祭りにふらふらと誘われてみただけの者にございます」
カボチャ頭は深く腰を折って一礼して見せた。
『ならば、邪魔ヲするナァ――』
どこまでも人を食ったその物言いに、排除すべき邪魔者と判断したらしい悪霊の一人が吠えた。土色の肌がでろりとめくれ、口の端から白い骨が覗く。人の顔をかなぐり捨てて飛び掛ってくる化け物に夫人が息を呑み、部外者に怪我はさせられないと勇敢な老人が細い腕を伸ばしてくる。
その視界を、強烈な赤がさえぎった。
竜巻のような疾風が奔り、老夫婦はとっさに互いを庇うように手を取り合って身を伏せる。
塵一つ巻き上げることのない突風が駆け抜けた瞬間、にごった悲鳴とともに何かが地面に叩きつけられる鈍い音が響いた。
「おや、大丈夫ですか? およしなさいと言ったそばからこれだ……」
頭を上げた老夫婦が見たものは、到底生身の人間ではありえないほどに顔の輪郭を歪ませ倒れ伏す悪鬼の一人だった。そしてその横でのたうちまわっている男の体には、刃物で切られたような裂傷がいたるところに刻まれている。ぱっくりと開いた傷口から一滴の血も流れ出ないことが、より気味の悪さを増している。
「ああひどい傷だ。可哀想に、生者でないから治らない。おや、痛い? おかしいな、痛みも生きる者の特権だったはずだが――?」
地面に伏したまま呻く悪霊たちを見下ろして、カボチャ頭は冷ややかに笑った。動かない顔を一撫でして残りのものを一瞥した視線は何の感情もこもらず、ただ絶対的に優位を確信したものの鋭さだけが宿っている。
カツンと踵を鳴らして一歩踏み出したその迫力に気圧されして、じりじりと後じさる悪鬼たちにはもう、先ほどまでの威圧感はない。それでも引くに引けないのか、野犬のような顔つきになった一人が吠えた。
『だァまれ! カボチャ風情が邪魔ヲスルな!』
泡を飛ばすその口が、ガクンと裂ける。裂け目は頭にまで広がり、縮れた髪の間からは二つの突起が飛び出した。ひくひくと動くそれは間違いなく獣の耳だ。
見る間に広がった皮膚の裂け目からは硬い獣毛に覆われた肌が覗き、気付けば文字通り人の皮を捨てた一匹の獣が、太い歯をむき出しにして唸り声を上げていた。
「なるほど、これほど簡単に人の姿を捨てられる下級の魔物には、相手の技量を測るなどということは無理な話だったか。――いや、こんな結界一つ越えることすら出来ん輩に、考えろということ自体酷か?」
姿を変えた悪霊たちに臆した気配一つ見せず、カボチャ頭はどこか楽しげでさえある口調で低く笑った。
「ご主人、奥様。お騒がせして申し訳ないが通りかかったのも何かの縁だ。こいつらの始末は私に任せて、早くご家族の元に行っておあげなさい。ああそうだ、間違いがあっても困りますから、その魔除けの結界よりこちらには絶対に出ないように」
振り向くことなく後ろの老夫婦に告げて、カボチャ男は両手を広げた。
マントが翻り、赤が踊る。
『ふざけるなよ、コゾウ!』
誘われるように魔犬が跳んだ。残りも次々とそれに続く。
「下級悪鬼の戯言ほど不愉快なものはないな。本来私の仕事じゃないが、特別だ。元の闇へ送り返してやる」
飛び掛ってくる悪鬼たちに向け、男は焦る色もみせず左手の籠を突き出した。真っ赤な色の飴が数粒、呼ばれたように飛び出してくる。主のまわりを回る間に、赤い塊は文字通りの赤い炎の玉に変わった。
「さあ、迷えるものたちよ、元の世界に還るがいい!」
底冷えのする低い声に命じられ、火の玉が悪鬼に向かって飛ぶ。それだけで、あっけなく攻守は逆転した。
まとわりついてくるそれを追い払おうとがむしゃらに腕を振り回す。けれど小指の先ほどの小さな炎を捕らえられるはずもなく、やすやすと懐に飛び込んでいく。
火の玉が悪鬼の体に触れたとたん、炎は爆発的に膨らんだ。瞬く間に背丈を越える火柱が立ち、それが闇の住人を頭から飲み込む。全身に回る浄化の炎から、逃れる術はもはやない。
踊るように体をくねらせ、地面に転がってのた打ち回り、それでも弱まることのない炎。
赤く紅く彩られた輪郭が、さらさらと崩れ始めた。吹き上げる風に運ばれる灰のように、形を消していく。
辺りを照らす熱のない炎に包まれた悪鬼の体は、あっけなく、溶けるように崩れてうせた。
カボチャ頭がパンと手を打ったとたん、炎は掻き消えるように姿を消す。道の上に焦げあと一つ残さず、はじめから何も存在しなかったかのように。
「さて、見苦しいものは消えた。お二人ともお騒がせしました」
振り返って優雅に一礼して見せた異形の男に、手を取り合って成り行きを見守っていた二人の霊は、顔を見合わせてからおずおずと頭をさげる。
男の正体を図りかねているその様子に、カボチャ頭の瞳が苦笑するように揺れた。
「寄る辺のない道化もすぐに消えます、ご心配なく。お目汚しのお詫びに、こちらを差し上げましょう」
白い指が鳴らされる。籠から淡い色の飴玉が浮き上がった。
「ご家族の皆様にも是非。ああ、子供が四人とは大家族だ、賑やかでうらやましい。これをプレゼントして差し上げてください。よい夢が見られるおまじないです」
悪霊を焼き尽くしたのと同じ籠から飛び出た光に驚いた老夫婦だが、真っ赤な火の玉とは異なる柔らかな光に夫人がおずおずと片手を差し出した。手のひらの上で桃色の飴玉がコロンと踊る。
「ご夫婦にはこちらを。帰りに迷わぬお守りです」
今度こそ顔を見合わせる夫婦の前に、もう二つ光の玉が浮き上がる。それがそれぞれの襟元に飛び込んで消えた。
老人の表情が一瞬強張り、それから何かに気付いたようにカボチャの顔を凝視する。
口を開こうとした先を制し、カボチャ頭は己の白い指をくり抜いた口にそっと当てた。
「ご老人、それは内密に。私は万聖節の幻、それだけですよ」
慌てて頭を下げる老人にもう一度一礼して見せ、それきり男はきびすを返して軽い足取りで歩き出した。
大通りの角を曲がると、そこで男は足を止める。
「さて、まだ夜明けには遠いな。もう一巡りしてくるか」
雲のない空を見上げて呟いた声が、風にさらわれていった。