るすべを らぬ たち

聖節の幻

4.黒猫を連れて夜を歩く(前)

 夜明けが近づき傾き始めた細月を、風に流された雲が覆う。けれど月を隠した雲もあっという間に過ぎてゆき、また次の雲がやってくる。
 月の光がちらちらと瞬くように照らす大通りを、カボチャ頭がゆったりと一人歩いている。左右の街灯に照らし出された彼の影も、薄く引き延ばされてついていく。乱れることない足取りは聞こえない音楽に合わせて踏むステップを思わせる。さながらたった一人のために用意された舞踏会のようだ。
 男の持つ蕪のランタンから淡い光が、ゆらゆらと揺れる輪のように広がっていく。それが道の端までたどり着くと、裏路地にこびりついた真っ黒な闇が、心なしかおびえたように震える。
 全く歩調を変えることなく歩き続けながら、男はちらりとそれに視線を向けた。それから突然足を止めると、いきなり向きを変えてその裏路地の中へ飛び込んだ。家の裏側同士が向き合って出来た明かりのない細い道に、ランタンの小さな明かり一つが瞬く。 霧のような闇たちは、一瞬おののいたように引いた後、漣が押し返すように男の体にまとわりついた。掴むことのできないそれらが明確な意思をもって侵入者を取り囲み、押し包もうとする。それはどこにでもある闇などではなく、魔の領域に属するモノたちだった。生者ですら取り込み喰らう、闇色をした化け物たちがそこにはあふれていた。
 本来ならそこは、ほんの十数歩で通り抜けられるはずの短い路地だ。けれどまとわりつくその闇は重く男の足に取り付き、腕を引っ張り、体の自由を奪っていく。大通りからまだいくらもいかない、薄暗がりでしかないはずの場所であるはずなのに、男の姿は完全に闇に呑まれた。男の右手にあるはずのランタンの明かりすらもう見えない。
 男に群がった何かが、カボチャ頭に彫られた開口部に集まり始めた。そこから男の中に入り込み、すべてを取り込んでしまうつもりなのだ。
 目や口をかたどった場所から、最初の闇が男の中に侵入する。男の体が、闇の中で一度大きく痙攣した。
 次の瞬間、彼の全身を押し包んでいた闇が膨らんだ。否、内側から押し返されているのだ。その反撃に負けまいと闇が一層濃さを増し、取り込んだ獲物を咀嚼するように波打った。
 ぐっと集まってきたモノたちに潰されるように、男の身体が沈み込む。膝を着いた獲物に歓喜してか、闇がたわんだ。とどめとばかりに殺到する漆黒の塊に男の口から響いたのは、断末魔のうめき声ではなく、鋭い舌打ちの音だった。
 直後、闇の群れが爆発した。取り込んだはずの獲物に押し戻され、四方に弾き飛ばされたのだ。音もなく四散したモノたちを、ゆらりと立ち上がった男がねめつける。
「取り込めるかどうかも分からず見境なく取り付くな、低脳どもめ。悪いが、通れない道は好きじゃないのでね、掃除させてもらうぞ」
 再び襲い掛かってきたモノたちに向けて、カボチャ頭は右手を掲げた。白い蕪の中で光る橙色の炎が、一瞬のうちに赤く赤く燃え上がる。
「形すら成せぬ下等なお前たちには、これで充分だ」
 嘲笑さえこめて放たれた言葉に合わせるように、赤く膨らんだ炎が闇の異形に燃え移った。瞬く間に赤が黒を侵食していく。黒い霧がどんなにその身を震わせても、叫ぶように伸縮しても、一度喰らいついた炎はエモノを逃しはしない。
「悪魔の業火から逃げられるものか」
 のたうつように脈動しながら燃え崩れていく闇を冷ややかに見つめ、男は非情に言い切った。その言葉をどれだけ聴くことが出来たのか、闇はあっけなく、最後の一片まで焼き尽くされた。声無き絶叫の残滓さえ吹きぬけた風に散らされ、後には、ランタンを掲げた男だけが残った。
 ぼんやりとした薄暗がりを取り戻した裏路地を一度見回した男は、何事も無かったかのように躊躇い無く歩き始めた。今度は誰にも邪魔されることなく路地を通り抜ける。
 裾についた埃を落とすようにマントを振るった男が、ふと一つの方向に視線を向け動きを止めた。眼窩の奥の炎がゆらりと瞬く。
「どうもおかしいと思ったら、あのバカ、手を抜いたな」 
 舌打ちするように呟いて向かう先には、一軒の古びた家が建っている。小ぶりなランタンで控えめに飾られた玄関の庇屋根を見上げ、カボチャ男が唸った。
「ジャック、お前仕事はどうした」
 低く呼びかけた先で、一匹の黒猫が丸めていた背中をのそりと起こした。カボチャ頭を見下ろして、ひとつ暢気なあくびをこぼす。
 四つ足を一本一本順番に伸ばし、最後にくっと屈伸する姿はどこにでもいるただの黒猫だ。ただ金色の双眸に宿る鋭い光と、どこか皮肉げに持ち上げられた口元とが普通の猫にはない気配を作り出している。
「やあ、ウィル。カリカリしてるなあ。今日は祭りの夜だぜ?」
「誰のせいだと思ってる。祭りの夜の悪鬼祓いはお前の役目だろうが。お前が油を打っている合間に、やつらは好き勝手に暴れているんだがな」
 ウィル、と呼ばれたカボチャ頭は、黒猫の言葉に驚くこともなくそう切り返す。
「俺だって最初はちゃんと見回りしてたんだぜ。けど、ここのばあちゃんとは顔見知りでさ。ダンナが死んで息子家族は遠い街で暮らしてる。お菓子を焼いても料理の腕を振るっても、食べてくれる相手がいなきゃつまらない。だから猫ちゃんうちでご飯食べてお行きよ、って誘われたら、断るほうが失礼ってもんだろう? それにここのばあちゃんの作る鳥の丸焼き、脂が乗ってて旨いの旨くないのって……」
 うっとりとため息をついた黒猫は、対照的なまでに冷ややかなカボチャ頭の視線にぶつかって、決まり悪げに咳払いをした。
「ま、まああれだ、その後つい眠っちまったのは、悪かった」
 黒猫が、庇の上からレンガ塀へと身軽に飛び移る。
「お前が寝ていた分はきちんと働けよ。いろいろと厄介なやつらも増えているようだからな、せいぜい覚悟しておけ」
「な、なんだよウィル、手伝ってくれないのかよ?」
 歩き出したカボチャ頭を追って、黒猫が塀の上を器用に走る。それを横目で見上げた男が鼻を鳴らした。
「生家に戻った老夫婦にちょっかいを出した犬もどきを四匹、裏路地を丸々飲み込んでいた黒い霧。ああ、あとは子供の夢に入り込む性質の悪い子鬼を何匹か蹴散らしたな。それだけ片付けてまだ手伝えと?」
「あー、じゃあさっきの騒ぎはお前の仕業か」
「ああ、路地のが面倒だったんでな、燃やしておいた」
 過激だよなと呟いた黒猫の言葉に、男は足を止めて相手を見上げた。
「本来私の契約は、子供への菓子配りと迷える者への道しるべ、あとは戻り道と還る時間を忘れないようにという念押しだけだ。迷った末に凶暴になった哀れな霊ならば引き受けもするが、最初から暴れるだけが目的のモノを相手にするのは性に合わん」
 黒猫がトンと地面に飛び降りた。カボチャ頭を数歩追い越して振り仰ぐ。
「なんだよ、お前結構強いんだから平気じゃんかよー」
 けれど返ってきたのは冷ややかな沈黙で、今更おだてても乗ってこない程度には、男は不機嫌だった。
 これ以上の軽口は身の危険と判断したのか、続く言葉を飲み込んで黒猫は前を向いた。