るすべを らぬ たち

聖節の幻

4.黒猫を連れて夜を歩く(後)

 沈黙のまま、一人と一匹の影が通りを進む。細い路地を抜け大通りに戻ったところで、黒猫がつぶれたうめき声を上げた。
 目の前の道は、昼間の賑わいを彷彿とさせる一種の騒々しさであふれていた。ただし、大声を上げながら走り回るのは荷を運ぶ車夫ではなく大鎌を掲げた殺人狂で、朗々とした声で呼び込みをする恰幅のよい男の求めるものは、客ではなくその声に引き寄せられた生者の魂だ。
 長い髪の女性は優しい笑顔で子供の名前を呼んでいるが、真っ赤なドレスを染めているのは染料ではなく人の血だろう。
 霊感のないものでさえ、そこに居合わせただけで気分が悪くなるだろう、阿鼻叫喚の世界が広がっている。少し敏感な子供なら毒気に当てられるか、さもなければ人ならざるものと気付かず呼び込まれ、あの世へ連れ去られてしまうかもしれない。それほどまでに、大通りは異界と化していた。
「うわあ、なんだこれ。なあウィル、地獄の釜の蓋が壊れたって話は聞いてるか……?」
 あまりの惨状に、立ち尽くした黒猫が追いついた男を振り仰ぐ。その男も、僅かの間に様相を変えた大通りに絶句してから、やがて首を振った。
「そんな噂か聞こえてこない。こないが、あながち外れとも言えんぞ。最近はどこでも戦争の噂が耐えんからな。流れた血が地獄からの道を作った可能性はある」
 うげえ、とひげを振るわせた黒猫に追い討ちをかける。
「ともかく、この街の掃除係はジャック、お前だ」
 抗議する間も与えず黒猫の首を掴んで持ち上げだ男が、そのまま容赦なく小さな身体を前方に放った。猫らしい身のこなしで難なく着地はしたものの、そこは死霊たちのど真ん中だ。
「なにすんだ、この人でなし!」
「確認されんでも分かっている。たらふく食べたんだろうが、その分くらいは働け」
 手伝う気はないという意思表示のつもりか、カボチャ頭は腕を組んで身近な壁に背中を預けた。
 半透明の痩せた男が身体の上を跨ぐように通り過ぎ、その冷たい気配に総毛だった黒猫は、身震いしたあとがくりとうなだれた。
「なあ、本気で手伝う気ない? これ、終わる前に夜が明けちまう……」
 そういって未練がましく振り向いた先に、だが男の姿はなかった。
「え、ウィルどうした?」
 慌てて見回した視線の先、問う声には答えず彼は死者の波を掻き分けるようにして歩いていた。黒猫はとっさにその背を追う。
 男の行く手には、血に染まるドレスを纏う女性。その甘い呼び声に惹かれたのか、一人の少年がおそるおそる近づいていく。手を伸ばし子供を招く女の赤い唇が、半月型に吊り上がった。
 けれど、おいでと動く指先が触れたのは、目当ての少年の身体ではなく、何も無い虚空だった。女の腕が届く一瞬前に、少年はカボチャ頭に引き戻されていた。
「やあ坊や、迷子かい? この辺りは少し危険でね。ヘンなモノにつかまると、二度と還れなくなってしまうよ」
 少年がいきなり肩を掴んだカボチャを被った男と、優しい笑みを浮かべた女性とを交互に見る。その瞳はまだ霞がかかったように生気がない。
「アレの正体は君の母親などではないよ。つかまったら最後、行く先は腹の中さ」
 突然現れた異形の男の言葉に困惑して視線を彷徨わせる少年を取り返すべく、赤い服の女はより一層笑みを濃くした。紅唇から紡がれるのは、甘い調べの子守唄だ。少年の瞳が次第に、夢見心地に焦点を失う。
「ジャック!」 
 ふらりと上体を揺らした少年に舌打ちし、男が吠えた。
 直後、黒い塊が女にぶつかる。歌声が途切れ、変わりに絶叫がほとばしる。
「へえ、これで痛がるってことはアンタ、真っ当な霊じゃないな」
 爪を出した状態で女の顔に着地した黒猫が、反動を利用して器用にカボチャ頭の横に降り立った。
 女は、先ほどまでの笑みとは一変した形相で呻き、乱入者を睨みつける。爪にえぐられた白い肌はめくれあがり、傷口から音を立てて腐り始めている。
 強引に伸ばした腕は、鋭く鳴いた黒猫の声に阻まれて届くことはない。
「私が導く相手ではないな。ジャック、始末は任せた」
 悪霊を祓う力を持つ黒猫に言い置いて、男は少年の前に膝を着いた。おびえたように視線を彷徨わせるその表情からは、幻惑の子守唄を耳にした影響はもう消えている。
「さて坊や、おうちは分かるかな。一人で帰るのは危ないから、私が送っていこう」
 びっくりした顔を見る間に泣き顔に変えて、少年は首を振った。
「そうか、じゃあ探さないとな。この籠を持ってごらん」
 少年が籠を受け取ると、男は一つ指を鳴らした。薄い緑色の飴玉が一粒、ふわりと浮き上がる。少年の周りを一周したあと、それは淡く光の尾を引いて一つの方向に動いた。
「よし、見つかった。これについていけば君の探す場所につける」
 少年の顔が安心したように和らいだ。立ち上がって籠を受け取った男が、その頭に手を置いてから、そういえばと呟く。
「聞き忘れていたよ。君の好きな色は何色だい? 赤、青、黄色? それとも緑かな?」
 緑に頷いた少年の頭を撫で、指を鳴らす。ふわりと風が動いて、男の手には鮮やかな緑色の外套が現れた。
「寒いからこれを着ていなさい。聖誕祭には少し早いがプレゼントだ」
 上着を着こんで破顔した少年を抱き上げ、カボチャ頭は光を追って歩き出す。ちらりと振り返った先では、猫の鋭い爪に文字通り八つ裂きにされた女が、塵となって消えるところだった。
 その光景を翻したマントで少年の目から隠して、男は迷わず街を歩く。


 空にはまだかけた月。太陽が昇るまではもうしばらく時間がありそうだ。