1.遅れて来た招待状(2)
木の枝に片手をつき、肩からずり落ちかけた鞄を背負いなおして、少女は荒くなった息を落ち着かせるべく大きく呼吸を繰り返す。防寒のためにと着こんでいた外套は枝の張り出した小道を抜けるには不便極まりなく、とうの昔に脱いでしまった。そうでなくても、歩き詰めのおかげでとめどなく汗が噴きだしてくるほど暑かった。
目にしみる汗を拭って膝に手を置くと、前のめりになった肩たら滑った鞄が鈍い音を立てて地面にぶつかった。
重みのなくなった肩で息をつきながら、少女は低く呻いた。
あれから進んだ道はそこかしこで二又三又に枝分かれし、行き止まりにぶつかって引き返してさえ道が増えていくという迷路そのものだった。目印の紐は何ら意味をなさず、もう進んでいるのか戻っているのかもわからない状態だ。
彼女がそれでも足を止めなかったのは、意地よりも恐怖のためだった。進めば進むほど迷路に絡め取られていくことがわかっていても、万に一つでも森の出口に行き当たるかも知れないという可能性を捨て切れなかったからだ。立ち止まってしまえばどこにもたどり着けはしない。
呼吸を落ち着けた少女は、右手のランタンを掲げて辺りを見回した。
光の輪に照らし出されるのはどこといって特徴のない木々ばかりで、やはり記憶の中のどの道筋とも合うようで合いはしなかった。
頬を流れる水滴を、強引に袖で拭う。泣いているなどと認めたら二度と動けなくなりそうで、何度も痛みを感じるほどに擦り上げる。
魔女の森へ行くといった時必死で止めた両親の言葉が思い出される。
二度と会えなくなりそうだからと泣いてすがった母親を、必ず帰ってくるからとなだ
めすかしたが、それは叶わないかもしれない。
夜が明け、自分を探しに盛りに入る大人たちがどれだけ歩いても道がつながることはない。そんな想像さえ浮かんでくる。
彼女を探し呼ぶ声は聞こえるのに、彼女がどんなに叫んでもそれは大人たちには届かない。声を追っても姿は見えず、出口さえ見つからず、捜索を諦めた大人たちをなすすべなく見送るしかない――。
最悪の状況を思い浮かべた少女は、背筋を駆け上る悪寒を振り払うべく肩を揺らした。緩く波打つ茶色の髪がその動きにつられて視界を覆う。そのまましばらく俯いて息をついていた少女は、やがてよし、と小さくけれど気合の入った声を放ち顔を上げた。
髪をかきあげ覗かせた顔には乱暴に拭った涙の後こそ残っていたが、悲壮感は一片も見つからない。
「いいわよ、どうせならとことんまでいってやろうじゃないの!」
黒々とした森の奥を睨みすえ、一人叫ぶ。
挑戦を受けた木々が少女をあざ笑うかのように、はたまた憤慨したようにざわりと不協和音を奏でた。
荷物を担ぎなおして歩き出す少女をとりまく木々が、悪意を持って枝を打ち鳴らす。しなった小枝が鞭のように伸びて、右から左から少女の顔めがけて襲い掛かる。
もうただの木とはいえないほどあからさまな敵意をむき出しにした少女は、だがとっさに持ち上げた腕の下で不敵に唇をつりあげた。
――ほう、これはなかなか。
その瞬間、吹き抜ける風の甲高い音に混じって耳に届いた“声”に、彼女は慌てて視線をめぐらせる。けれど何の姿も見えず、油断したところに襲い掛かってくるのは木々の容赦ない鞭打ちばかりだ。
「誰? 誰かいるの?!」
その問いかけに答えるのは目を狙って突き出された細く鋭い枝先だ。耳を澄ませば、こらえきれず笑いを漏らしたような低くくつくつという声と、拍手ににた乾いた音が聞こえたような気がしたか、幻聴なのか聞き違いなのか判別のしようがない。
目を狙った一撃をのけぞりざまにこぶしで叩き落した少女は、厳しい視線を暗闇に向け、唯一の光源であるランタンを突きつけるように掲げた。
その気迫にひるんだのか、木々のざわめきが一瞬止む。
――面白い。気に入った!
しん、と音の止んだ不自然な静寂の中、今度こそ“声”ははっきりと聞き取れた。
「誰! どこにいるの!」
問いただすべくランタンを掲げ双眸を眇めた少女に応えたのは、パチンと指を鳴らす乾いた音一つ。
なに、と彼女の唇が動くより早く、足元の地面がうごめいた。
「きゃっ」
悲鳴を上げた少女はとっさに左腕をあげて顔を庇った。
足をすくうようにうごめいた地面の正体は降り積もった落ち葉で、それがどこからとも分からない突風に巻き上げられ、真下から彼女に襲い掛かったのだ。
全身を打つ痛みに声も出ず、ただ目を閉じ息を殺して嵐が収まるのを待つ彼女の右手で、いきなり炎が上がった。
ランタンの風防をものともせず飛び込んだ落ち葉が燃えたのか、それとも風にあおられたせいか。
とっさのことに対応も出来ずにいる少女の眼前を、何か黒いものが横切る。あっと思う間もなくソレは右手に衝突し、火を噴くランタンをもぎ取っていく。
右手に走った痛みに、少女はうずくまる。
視界の隅で、木の幹にぶつかったらしいランタンが燃え上がるのが見えた。音こそ聞こえなかったが風防が砕け散ってしまったのだろう。流れ出した油に引火したらしいオレンジ色の炎は、すぐにしぼむように燃え尽きた。
光源の途絶えた暗闇は、一層暗かった。少女が目を凝らしても、暗く沈んだ森の様子は分からない。
座り込んで呆然と瞬く彼女は、しばらくしてから落ち葉の嵐さえも掻き消えていることに気付いた。
恐る恐る首を伸ばす動きにつられて、全身に張り付いていた落ち葉がパラパラと剥がれ落ちる。先ほどまでは鋭利な刃物のように痛みをもたらしていたそれらは、今は操り糸の切れた人形のようにあっけなく振り払われていく。
辺りの様子を窺いつつ身を起こし、少女は服に残った枯葉を払い落とした。その段になって、あたりがやけに静かなことに気付いた。
落ち葉の襲撃ばかりではない。四方八方から伸ばされる枝が風を切る唸りも聞こえない。あざけりとも怒号とも思える葉擦れの音もない。ただ、夜にふさわしい静寂だけが辺りに満ちていた。
「なにこれ……」
枯葉の作った小山のうえに立った少女は、眉を顰めて辺りを見回した。不穏な音が消えると同時に、のしかかっていた見えない圧迫感さえきれいに消えうせている。魔女の森というには、今の様子はあまりに普通の森だ。
きっかけとして思い当たるのは、あの“声”しかないが、何度首をめぐらせてもその主らしき姿は見えない。それ以前にランタンを失った少女には、足元を照らす明かりすらない。
それでも彼女は群がる落ち葉を蹴散らして数歩進んだ。灯が消えた直後の目隠しされたような暗さに比べれば、時間がたった分だけ闇に目が慣れ始めている。
移動した分だけ広がった視界の隅に違和感を覚え、彼女は勢いよく振り向いた。
ちらりと見えたオレンジ色の“何か”が、振り向いた先に確かに存在した
木々の間に揺れる、灯。
ちょうど大人が顔のあたりにランタンを掲げたくらいの高さで、それは静かに瞬いている。
けれど、それを持つ人の姿はない。だだぼうっとした灯のみがそこに揺れているのだ。
怪奇そのものともいえる現象を、少女は双眸を眇めてみつめた。
この森に足を踏み入れてから、普通では説明のつかないことには何度も出くわしている。害意をもって襲い来るモノたちに比べれば、今更悲鳴を上げるほどではない。
小さな火は、少女が己に気付いたことを喜ぶかのように瞬いて見せた。それからすっと動き、僅かに遠ざかる。人の足であれば数歩の距離だけ進み、止まる。再び瞬き、遠ざかる。その繰り返しは、少女が付いてくるかを確かめている素振りのようにすら思える。
実際、少女がそちらに歩き出したとたん鬼火のような炎は一際大きく瞬いてすうっと動いた。
魔女の森の中、得体の知れぬモノについていくことは、自殺行為に等しいだろう。
それでも――。
「いってやろうじゃないの」
泥と枯葉にまみれは少女は、不敵に呟いてみせた。
先ほどの誰かの“声”を信じるならば、彼女はおそらく“合格”だ。それに賭けてみても損はない。どのみち魔女の懐に飛び込むなら、とうに覚悟はできている。
少女は荷物を背負いなおして、怪しい光を追いかけた。
不思議なことに、あれだけ彼女の行く手を阻んでいた木々たちはこそりとも音をたてない。一定の距離を開けて揺らめく炎が、導き手をつとめているのだろうか。
そして。
ひたすらに歩いた少女の視界は唐突に開け、森の中とは思えぬ豪奢な二階建ての屋敷がその姿を現した。
鬼火はそのまあ静かに飛んで、玄関脇に赤々と燈された松明に同化した。
一瞬膨らんだ後何事もなかったかのように静かに燃え盛る炎をしばし見つめた少女は、我にかえって空を仰いだ。木々の間から見えるのは、まだ暗い夜の色だ。
刻限に間に合った少女は、唇に笑みを浮かべ魔女の家の玄関に歩み寄った。