るすべを らぬ たち

魔の火種

2.地下書庫の主にお願い(1)

 一人屋敷の玄関先に佇んでいた少女は、やがて意を決してを握り、一歩踏み出した。扉までの階段を上って一旦足を止め服の乱れを整え、深呼吸してから呼び鈴に手を伸ばす。
 少女の指先が呼び鈴にかかる寸前、扉は僅かに軋みを上げながらひとりでに動き出した。
 慌てて一歩後退さった少女は、扉の内から溢れる光を目を眇めてやりすごす。
 不意にそのまぶしさが翳ったことに気付いて顔を上げれば、煌々と燈されたランプの数々を背にした男が一人、立っていた。彼は少女に向け深く頭を下げてから一歩横にずれて道をあける。
 入れと促されたのだと理解した少女は、恐る恐る、けれど表情には出さないように取り繕いながら、屋敷の中に足を踏み入れた。
 広い玄関ホールは吹き抜けになっており、二階部分の天井から下がる意匠を凝らした燭台が部屋の隅々までを照らし出している。その広さに圧倒された少女は、息を呑んで誘われるように二歩三歩と中へと進んだ。
 彼女の後ろで扉が再び動き、腹に響く音を立てて閉じる。
『ゴアンナイイタシマス、ドウゾコチラヘ』
 肩越しに扉を振り返った少女に向けて、男が呼びかける。滑らかな動きとは対照的に、その声は平坦で歪だった。一文字一文字をつなげただけの音声は、人の声ではない。
  ぎょっと視線を戻した少女にまじまじと見つめられることすら気付かないのか、黒い礼装に身を包んだ男は背を向けて歩き出した。
 付いてこいといわれたことを思い出し、少女は小走りに後を追った。
 二人の影は玄関ホールを横切って奥へと進んでいく。男が滑るように歩く先々で、廊下を仕切る扉が一つまた一つと、ひとりでに開いていく。少女の少し乱れた足音と、後ろで重く響く規則的な音とが長い廊下に響いた。
 延々と続く扉と廊下の繰り返しは、彼女に森の迷い道を思い出させた。万一男に置いていかれてしまえば、永久にどこにもたどり着けないのは確実だろう。
  扉で仕切られたいくつもの空間を通り過ぎる間、少女は男の背を追いつつも油断なくあたりに視線を走らせた。それぞれが部屋に通じるのだろう左右の立派な扉たちは固く閉じられたままで、流れるように後ろに去っていく。
 そんな無機質な扉の数々とは対照的に、廊下なのか小部屋なのかもはや判断のできない通路は、だんだんときらびやかになっていった。
 色とりどりの羽根を広げた鳥たちの剥製が、空を飛ぶ姿のまま永久に時を止め飾られているかと思えば、次の扉の向こうでは、熊や狼が牙をむき、空ろな双眸で侵入者を睨みつけている。
 廊下であるはずの空間には、それぞれ一つの陳列室のように珍しいモノタチが並べ置かれていた。
 黒熊の爪の下をかいくぐって扉の向こうへと逃れたマリアは、つんのめるようにして足を止めた。零れ出そうになった悲鳴を、喉奥で辛うじて押し殺す。小さな燭台の灯に長い影を躍らせていたのは、無骨な甲冑に身を包み、様々な武器を振り上げた兵士たちだった。
 オレンジ色の炎に照らし出された無骨な武者は、だが、よく見れば中身のないがらんどうの身体だ。武器を振り上げた巨体も、ほんの僅かのバランスが崩れれば、ばらばらに雪崩落ちるだろう危うさが隠れている。それでも銀や黒に塗られた冑の奥で、空ろな闇が見えない敵を睨みつけている様は不気味な威圧感を醸し出していた。
 ふと視線を戻したマリアは、慌てて次の扉の向こうに消えようとする黒服の男の背を追った。
 間一髪滑り込んだすぐ後ろで、重い地響きを立てて扉は閉まった。
 どれもこれもすべてが動きを止めた空間の中を、二つの影か駆け抜けていく。けれど先を行く男も生者ではなく、言うなればマリアこそが異形の存在であるのかもしれない。
 滑らか過ぎる動きには人間味は欠片もなく、同じ姿勢を保ったまま、ともすれば静止しているような錯覚を起こさせる。だのに、瞬きする間にさえ男は確実に距離を進んでいるのだ。
 少女は、必死で男を追っていた。
 最初はゆっくりと歩く速度だった男の足取りは、気付けば小走りでは置きざりに去れてしまいそうな速さへと変わっている。
 廊下の様子をいちいち観察しているだけの余裕をも失ったマリアは、ただひたすら、唇を噛んで男を追い続けた。はぐれてはいけない、と、何かが告げていた。
 永遠に続くかと思われたその時間は、だが、唐突に、あっけなく幕を下ろした。
 一つの扉の前で、男がぴたりと足を止めたのだ。
『コチラデス。ドウゾオハイリクダサイ』
 つんのめるように立ち止まり、膝に手を当てて荒く息をつくマリアの状況になどかまわず、男は白い手袋を嵌めた手で扉を示し、道をあけるように壁際に退くと、直立不動の姿勢となって、あとはすべての動きを止めてしまった。 
 荒い息に揺れる前髪の下から、マリアは男の姿を観察する。のっぺりとした白い顔は、造作こそ整っているもののやはり仮面であるようだった。瞬きのない両眼も意匠を凝らして描きこまれているのだがら、中に人がいるとは思えない。触れば砕ける張りぼてと考えるのが自然だろう。
 話しかけようとして、マリアは結局唇を舐めるにとどめた。こちらがどう動こうが男が反応を返さないことは簡単に予想が付いたからだ。おそらくは、来訪者を案内するという命令だけが与えられ、それを実行し終えたことで元の状態に戻ったと考えるべきなのだろう。
 彼女は人形から扉へと移した。今まで続いた個性のない扉とは明らかに違う、大きく豪奢なそれは、確かに主の控える間の入り口としてふさわしいものだ。
 けれど、扉には取っ手が見当たらない。押すべきか否かを迷うほどの重量感は伝わってくるのに、どう開けていいものやら分からない。
 男に助けを求めることを放棄した少女は、肩に食い込む荷物をゆすり上げ、額を伝う汗を拭って、慎重に扉に近づいた。玄関とは違い、彼女が正面に立っても、扉は何の反応も返さない。
 そうっと伸ばした指先が、固い木の表面に触れる。感触は古い木肌で、暑くもなく冷たくもなく、ましてや牙をむいて噛み付いてなどこなかった。
 何の反応も返さない扉を前に、一つ咳払いをした少女は、ためしにとばかりに指先に力を込める。
 くっと押し込んだ力を受けて、扉はあっさりと、音もなく押し開かれた。