るすべを らぬ たち

魔の火種

2.地下書庫の主にお願い(3)

 一向に終わりの見えない廊下を歩き続けていたマリアが、不意に足を止めた。規則的な足音の最後の余韻が、高く低く反響しながら消えていく。
 やがて、冷たい意思の回廊にはこそとも音が聞こえなくなった。
 眉根を寄せた少女は、じっと先を見つめる。変化はない。今来た道を振り返る。
 どこまでも真っ直ぐに思えた廊下は、ある一定の距離より向こうは闇に飲まれたようにかすんで、何一つ見通すことは出来なかった。照明の弱さゆえか、それとも廊下が気付かないほど緩やかに弧を描いているのか。マリアはなんの異変も――後ろに残してきたはずのほかの候補者の気配すら――確認することが出来なかった。
 苦い顔をしたまま前を向いた少女が、吐き捨てる。
「よっぽど迷路がお好きなのね。どこまでが現実でどこからが幻か……」
 森の中、屋敷の中それぞれで迷路は体験済みだ。動けば動くだけ広がっていく無限の迷宮。同じような趣向が凝らされているのだろうから、今更来た道を戻ったとしても同じ場所にはたどり着けまい。
 けれど、嫌悪感は増すばかりだが、反比例するように恐怖心は薄らいでいる。
「目的達成が帰り道への鍵、なら話ははやいんだろうけれど」
 魔女の気まぐれで一生このまま、という可能性が否定できないのが怖いところだ。
 それでも、ここを抜け出して試験に合格するためには、まず灯りのある部屋にたどり着けなくては始まらない。廊下でうろうろしていても、事態は動かない。
 けれど、危険を見抜く能力も身を守る術も、彼女は持ち合わせていない。持ち得る手段は、これと思った扉を片端から開けて確認する、地道で非効率的なものだけだ。
「仕方ない。適当に開けるしかなさそうね」
 扉の向こうがどうなっているかは分からないが、危険な部屋ならば入らなければいい。中に踏み込まない限りその部屋を選択したとみなされないのは、先ほど確認済だ。
 空のランタンを持ち替えたマリアは、迷う風もなく一番近くの扉に手を伸ばした。
「痛ッ!」
 とたん、手の甲に衝撃を受ける。明らかに何かがぶつかって、彼女の腕ごと弾き飛ばしたのだ。
 辺りを見回せば、すぐそこで毛を逆立てた黒猫が一匹、金色の双眸を輝かせてこちらを見上げている。
「何よ、あんたどっからきたの? 悪いけど邪魔しないで」 
 明らかな原因に眉をしかめつつ扉に向き直れば、足元の唸り声が一際大きくなった。今にも飛び掛ってきそうな様子に、流石に少女は鼻白む。
「わかった、わかったって。あんたのゴハンの隠し場所は開けないわよ」
 気を削がれたマリアは、扉の前から離れた。そもそも適当に選んだ場所に執着はない。縁起の悪さを考えれば開けたくはもない。
 数個離れた扉に標的を変え伸ばしかけたてをふと止めて、彼女は黒猫を見やった。すぐ足元に近寄ってきた猫は、金の目を丸く見開き、つややかな毛並みを目いっぱいに逆立てている。扉に触れようものなら、爪を出して襲い掛かってくる構えだ。
「ちょっとあんた」
 ため息をついたマリアは膝を付いて身をかがめ、唸り続ける猫と向かい合った。警戒心も露に一歩飛びのいた猫は、低く一声鳴いた。
「あんたにとっちゃどうでもいいかもしれないんだけどさ。とりあえずどこかに入らなきゃいけないのよ、私」
 言葉が分かるのか否か、猫の唸りが止んだ。敵か味方かを見極めようとするかのように、金の双眸がくっと細まった。
「あんたの隠れ場所を荒らす気はないの。でも、いちいち横で唸られてちゃやってらんないわ。だから、どこでもいいから、あんたのお許しが出る場所教えなさいよ」
 契約の証にと手を伸ばせば、猫は案外あっさりと毛を逆立てるのを止めた。了承したと言わんばかりに濡れた鼻先を一度押し付け、くるりと尾を振って背を向ける。
 数歩歩いた猫は、足を止めて低く啼いた。ついてこい、と仕草全体が物語っている。
「あら、イイコね」
 マリアは立ち上がり、あっさりとそれに従った。ほとんど投げやりな心境だった。
 薄暗い廊下を、尻尾を立てた黒猫は迷うことなく歩いていく。左右あわせて20を超える扉を無視して過ぎる背中に、逡巡すら見いだせない。
 どこまで行くのかと問いかけたマリアだが、口には出せないままにその尻尾を追った。
 猫は、唐突に足を止めた。腰を下ろし、開けろと言わんばかりに前脚を扉にかけてマリアを振り仰ぐ。
「ここ、ね?」
 高い鳴き声が返事の代わりだ。
 他のどれとも違いの見出せない扉に、マリアは首を傾げる。猫の声は大きさを増し、前脚は容赦なく木肌を引っかいた。
「分かったってば」
 慌てて取っ手を引けば、一瞬の重みを残して扉は動いた。
「あ、ちょっと!」
 開いたばかりの隙間に、猫の体が滑り込む。扉の向こうは闇。猫の毛並みを溶け込ませる闇。
 じっと見つめても耳そばだてても、なんの気配も感じられない。
 このまま扉を閉める、という選択肢もあった。室内にはまだ足を踏み入れてはいない。
 けれど、この地下室のどこにまともな場所があるだろうか。明らかに危険を匂わせる空気はないが、すべてが異質な空間であることには変わりない。扉が一度彼女の前に立ちはだかれば、次に姿を見せる部屋はまったく別のものだろう。
 どこかで踏み込まなければ、先には進めない。
 マリアは、深く息を吸って一歩踏み出した。
 廊下からの僅かな光だけが頼りらしい部屋は、どこまでも冥く沈んでいる。少し奥にいるらしい猫の双眸だけが爛々と輝いている。
 その道しるべが、不意に消えた。どこかに移動したのだろう。
「ねえ、待ちなさいよ!」
 取り残されたような不安感に二歩三歩と足を出すが、暗闇に踏み込む勇気が出ない。それを笑っているのか、それとも誘っているのか、猫が鳴いている。
 尚も躊躇うマリアの後ろで、扉が軋みをあげた。
「や、まって!」
 伸ばす手は間に合わず、外界とつながる入り口は音を立てて閉ざされた。
 空間が真の暗闇に染まる。一瞬平衡感覚をなくした少女は、短い悲鳴をあげてうずくまった。


「おや、意外だね」
 耳元で、得体の知れない声がささやいた。今度はかすれた吐息しか漏らせない彼女の様子を見透かしたように、どこからともなく声は続く。
「もう少し無謀かと思えば、普通の反応だね。何の策もなく魔女の屋敷に飛び込むにしては、臆病なことだ」
「誰、誰よ!」
 失礼な物言いに半ば反射的に怒鳴り返してから、マリアは眉をひそめた。声の響きに、覚えがある。
「なるほど、記憶力と観察力は及第点、と」
 どこをどう見ているのか、声は的確に彼女の変化に反応してくる。
 わきおこる疑問を肯定するような喉奥にこもった笑い声は、確かに、あの森の中で彼女が聞いたものだ。
「どこに居……きゃ!」
 立ち上がったマリアは、肩口を固い何かにぶつけて悲鳴を上げた。
「及第点ではあるが、無鉄砲には違いないな」
 何も見えないマリアは、睨みつける相手を見つけられず視線を彷徨わせるしかない。
「おや、失礼。普通の人間にはこの闇を見通すことはできないのだった。忘れていたよ」
 あの森で聞こえたのと同じ、指を鳴らす乾いた音が一つ、響いた。
 ボッ、と音を立てて明かりが灯った。一つが二つ、二つが四つに、それは瞬く間に増えていく。
「ようこそ、魔女の地下書庫へ」